百鏡

 伝説の出口王仁三郎カルタ、ももかがみ完全復刻版を皆さんはもう入手しただろうか?まだなら是非この機会に購入して欲しい。たしかに値段はカルタにしては安くない。しかしこれは単なるカルタではなく、いわば神品の完全復刻なので、罰当たりにならぬよう伝統に則り和紙で裏張りされている。技術を持った職人が減少していることもあり、今や殆どのカルタではこうした裏張りはされていない。当然、原価は高くなったが、それでもあと五年もしたら、いくらお金をかけても作れなくなる可能性を考え、大変な費用をかけて制作した。だから皆さんには一家に一体、いや本音を言えば一体は永久保存の神宝として安置し、一体は日々これを手にとって親しめるよう二体購入して頂きたい。もちろん売りは高度な職人芸や素材の良さだけではない。珠玉の中身がある。

 箱には「一人百首」とある。「百人一首」いうのは百人の歌人が詠んだ歌を百首集めて、読み札には清少納言なら清少納言、猿丸大夫なら猿丸大夫の絵姿を配置してある訳だが、これは「一人百首」であり、王仁三郎が詠んだ歌を彼自身が百首選び、それに自分の写真を配したものだ。「瑞月師肖像御百態入」と記されているのは、端月が王仁三郎を指すから。大本では王仁三郎は瑞の霊、出口なおは厳の霊なので、『瑞能神歌』ともある。『瑞能神歌』いえば太平洋戦争の予言で有名だが、ここでは王仁三郎の詠んだ神歌という意味になっている。

 ちなみにこれまで、このカルタが制作された経緯は、よく分かっていなかった。一つの教団の歴史としては極めて詳細な『大本七十年史』でも出てくるのは、たった一行で、昭和三年頃に制作されたという情報しか載っていない。しかし今回調査した結果、色々なことが判明した。詳しくは解説書に書いたので、そちらを読んでいただきたいが、「ももかがみ」の歌は生涯で百万首ともいわれる膨大な歌を詠んだ王仁三郎が、そのごく一部である「大本讃美歌」から百首をセレクトしたものとなっている。「大本讃美歌」は『霊界物語』の六十一巻、六十二巻として成立したもので、八幡書店版でいえば第11輯にあたる。祭典のときに使うため、大本系の教団では「大本讃美歌集」として別に出していたりするが、霊界物語に入っているわけだ。

 大事なのは、この大本讃美歌に関して王仁三郎が「この讃美歌は宣伝使の教科書である。いろんな問題の真解が歌で示してある。だからあれをよく読んでおいて、どんな種類の問題を聞かれても、その返答を神歌で返事が出来、また問題の解決が、神歌から引いて出来るようでないといけない。この讃美歌集は実に、宣伝使の教科書第一課で、宙で、どの神歌でも言えるようでなければいけない」と述べていることだ。しかしそれくらい重要であるといっても、相当なボリュームがある。順番に一から五六七までの番号が付けられており、長い歌謡形式のものは一首が数十行、五七五の短歌も五首から八首を一つの単位としてそれに番号が付されている。そして短歌だけでも約一千八百首~二千首あるので、とても覚えきれるものではない。そこでその中から王仁三郎が百首を選び、それぞれに自らの写真を配したのがこの『百鏡』なのだ。言ってしまえば『百鏡』は王仁三郎の教えのエッセンスともいうべき大本讃美歌のさらなるエッセンスということになる。

 このカルタを通じて私たちは「釈迦とミロクは三十二相八十種好であるが、わしは三十六相八十八種好である」と豪語していた王仁三郎のさまざま相貌に触れることができる。いくら神様や王仁三郎聖師の歌といっても、文字だけではなかなか心に沁み込むものではないが、王仁三郎の言霊とその姿がひとつに溶け込んでいることで、波動となって伝わってくる。

 だから時々、「どんなことを言っているのかな」とめくって見る、それだけでも霊験があるし、オラクルカード的に使うこともできる。ちなみにオラクルというのはよく勘違いされるが、占いとは違い、神託を意味している。神の託宣。つまり、その人にとっての気づきを促す言葉やアドバイス、メッセージなのだ。もっとも百鏡は一般的なオラクルとは、やはり少し違うので、何か具体的な相談を念じて引いてもいいが「今の自分にとっていちばん大事なことはなんでしょうか?」という気持ちで引いてみるのがお勧めだ。

それでたとえば
●いと貴き神の御子にしましませど 世を救ふため降りましぬる(101‐2)
という歌が出たとする。

 これは本来の宗教的意味としては王仁三郎自身のことを言っており、大本教学では王仁三郎は天の尊い天津神の御子だが、この世を救うために降臨したということになる。しかしこれはそういう限定的な意味とはかぎらず「時には自分が担う必要のない負担や責任を担う、そういう自己犠牲がよい結果を生む」という意味にも受け止められる。もちろんこのメッセージを受けて実際にどう行動するかはケースバイケースだが。

退きも進もならぬ今のよは 神のみひとりちからなりけり(180‐2)

 これも文字どおりには今の世の中はにっちもさっちもいなかいような状態になっており、それを変えることができるのは神の力だけだということになるが、そういう大きな意味だけではなくて、「自分の力を過信せず、かんながらの気持ちで臨め」という意味にもなる。具体的な問題を抱えている場合は、これは一般的なオラクルカードでも同様だが、ピンと来ることもあれば、変化球でくることもある、あるいはぜんぜん関係ないことを告げてくることもあるということは念頭におく必要がある。

例えば
夕暮れて妹とし登る円山の 月を仰げば恥かしきかな(531‐1)
という歌を引いたとする。

 一応説明しておくと、短歌で妹といった場合は妹のことではなく、恋人や嫁という意味だが、これは恋愛関係について悩んでいる場合は分かりやすい。歌は男性視点だが、女性の場合も同じように考えてよいだろう。円山とは大本教の本拠地のある綾部の本宮山のことで、王仁三郎にとっては身近な場所だ。だから最近、恋人との仲が上手くいっていない場合は、そこまで遠出せず、近場の公園や川原といったなるべく二人きりになれるような場所で過ごすと「恥ずかしきかな」とあるように、初心にかえった感覚が味わえるということかもしれない。あるいは意中の人がいるが、なかなか言い出ないという場合は、勇気を出してデートに誘うべしということもしれない。

 しかしなにもそんなこと聞きたいわけではないのに、この歌が出た場合は、いま念頭にある問題意識や悩みに対して、別のことにフォーカスすべきだというアドバイスだと考えられる。たとえば転職しようかどうか悩んでいたなら、恋人との関係をもうちょっと考えたほうが良いといった具合に。自分はまったく一人だいうような場合も、それはいつまでもそういう状態だと諦めているから一人なのであって、ポジティブ思考に切り替えれば、春は近いぞというお告げともとれる。

天にます大国常立大神は すべてのものゝ誠の祖なり(465‐3)

 こういう神様の権威を強調した歌が出た場合は、たいがい「お前は何をちまちまと迷っているのか。俗事にかまけて本源の神のこと忘れているのではないか」という意味だろう。だから神棚でも産土さまにでもお詣りして天の祖神に対して感謝せよ、そうしたら活路が開けるかもしれないと、そういうことになる。

 神様は、必ず自分にすがってくる相手の話を聞き、答えてくれる。人間の矮小な頭にとっては斜め上であったり、不可解であったりしても、引いた歌には必ず意味がある。その時には分からなくても、後で分かる場合もあるだろう。一見、噛み合ってないように感じても、それこそ今の自分に足りないものだと教えてくれることもあるだろう。そういう心もちで「百鏡」に親しんでもらえば、きっと良いことが待っているはずだ。

百鏡

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